普天間移設、特定秘密保護法、脱原発・・・反対だけでは無責任。その対案をあげて反論を示すべきだ。

 物事の是非を論じるとき、「執行者ならどうするか」と考えることと、単に「反対」では意見の根拠に大きなな違いがある。辺野古への移設に大きな影響を与える名護市長選挙が明日12日告示されるが、反対派は「沖縄に米軍基地を押しつける」とだけ反対意見をいい、防衛力維持の観点での対案は見えない。私は「沖縄の基地負担軽減のための訓練を北海道で更に受け入れよう」と訴えている。また、特定秘密保護法に関しては、報道機関はこぞって反対の論調だが、同盟国間の情報共有などの課題にどう対応するのかの論点はほとんど聞かれない。運用面の改善などの課題はあるが、その修正で本来の目的は果たせると私は考える。そして脱原発・・・ある新聞の社説では脱原発一色の論調で、代替エネルギーをいかに安く安定して確保するのかという考えは示されていない。「政治の意思と目標が明確になれば、多くの国民は新たな挑戦に踏み出す用意がある」と言うが、何を根拠にそう言えるというのだろう。仮に今よりも数倍高い電気料金でも「多くの国民」が賛同するという確信がもてるのだろうか。更に民主党政権発足には脱原発の民意が働きそれは今でも揺らいでいないというが、その民主党政権も原発の即時撤退を明言できなかったし、原発輸出も行った。このことが「単なる反対」から「執行者としての責任ある立場」の違いなのだと思う。